ブログはじめ 自分を振り返る③

2023年2月26日。3日目。

 

前回、3日坊主にならないことを目標にしていたというのに、あやうく2日坊主になるところだった笑

会社の飲み会やら友達やらと飲み歩いた飛び石連休。大いに楽しんだから、そろそろ続きを書こうと思います。

 

個人事業主となった私のお話。一言で表すなら、自由。ただし、一定期間だけ。

 

親の恩情に甘えて家の心配はないとはいえ、生活費はさすがに稼ぐ必要があった。

所属する劇団では、公演に出演できた場合は出演料がもらえるが、所属しているだけでは1円にもならない。そもそも出演が約束されているポジションでもないし、公演以外の仕事はオーディションがあるものがほとんどなので、基本的な収入は劇団以外に求める必要があった。

普通のアルバイトをしてもよかったのだが、オーディションの話は前日の夜に突然飛び込んでくることも多いので、シフトがガチガチに決まってしまう仕事は好ましくなかった。なので、飲食店のバイトとか、事前にシフトを提出する仕事を選択肢から除外した。そうすると、選択肢は思いのほか少ない。

そこで選んだのが個人事業主としてできるバイク便。事前のシフト提出はあるもののあくまで目安なので、予定を前日にひっくり返すことができるということが魅力だった。何より、当時はバイク大好きだったので、ある意味天職だった。本気で稼働すれば、売上ベースで月100万近く稼げるというのもよかった(もちろん、ガソリン代とかバイクの維持費とかの経費はここから出すことになるわけだが)。

公演が決まると1~2か月はまともに外貨獲得ができなくなるので、バイク便でごそっと稼いでしばらく公演に集中する、というのが定番となった。

 

だがしかし。この生活は2年ももたなかった。兄が社会人となったことで、親から受けていた家賃援助がなくなったのである。経費を入れても月20万稼げればよかった生活費に、家賃と光熱費という固定費が上乗せされることになった。しかも、調子に乗って仕事で使うバイクをフルローンで買っていたりもしたので、その支払いにも追われる日々がやってきた。

2年経っても、劇団の公演以外では役者としての仕事もほとんどなかったから、そっちの収入もない。バイク便は、働けば働くほど稼げるのは間違いないが、比例してガソリン代やバイクメンテナンス代や消耗品代も吊り上がっていく。

 

お金がやばい。理解はしていた。だが、なんだかんだ毎日楽しくて、減っていく通帳残高と本気で向き合うことができなかった。

 

通帳残高が尽きてからは、カードローンの残高が増えていった。バイクのローンが終われば支出は改善されるし、そうすればカードローンの返済に回せるお金が増えるはず、と安直に思っていた。きちんと家計簿をつけていれば、バイクのローンを差し引いても、収入より支出が上回っていたことに気付いたと思うんだが、それすらもやっていなかった。20歳そこそこの個人事業主、カードローンの上限もゴミみたいなものなのである。家賃を自分で払うようになって1年ほどで、カードローンの残高が上限に到達し、新規の借り入れもできなくなった。

そこでようやく私は、支出改善と収入増加に本気で取り組むことになった。

とはいえ、いつ仕事に繋がるかわからない飲み会を削るという発想はない。仕事のための経費を削ることもしない。なので、身の回りの生活費を削ることにしたが、もともと服や美容にはさほど興味がないので、削れた金額は微々たるものだった。

どちらかというと、本気で取り組んだのは収入増加だ。バイク便の顧客は法人がほとんどなので、平日はいいのだが、土日は案件が少なくて時間を無駄にしてしまうことが多かった。公演やオーディション前は本読みとかに使っていたのだが、そうでないときは友達と電話したりして暇つぶししていたりした。なので、土日を有効活用することにした。

何をしたかというと、賃貸物件のカウンター営業。大学をやめたときに大学の友達とはほとんど連絡を絶ってしまったが、ひとりだけ繋がっている子がいた。彼女が不動産管理会社に勤めていて、その会社が委託で営業を募集していたので、土日だけお世話になることにした。週末で3~4本接客すると、そのうち1本は成約になった。書類作成を含めた契約までの全業務を請け負うと、仲介手数料の半分がそのまま入ってくるのだが、平日は時間確保が難しいので、手数料を払って書類周りの仕事は全部お願いした。それでも、月に10万弱は収入が増えた。

収入が増えたことで、毎月の収支バランスがようやく整った。とはいえ、カードローンを一気に返済するだけの収入でもない。生活はなんとかなるが、カードローン残高という爆弾を抱えたまま、ちゃんと貯金もできない、という状況がしばらく続いた。

 

そしてこの状況は、24歳のある日、最悪の形で破綻することとなった。趣味で続けていた社会人バスケで大ケガをしたのだ。診断は前十字靭帯断裂。炎症が収まれば日常生活には支障はないが、運動には大きく制限を加える必要がある。きちんと直すためには手術が必要となり、手術後は半年程度、日常生活に影響が出る、というものだった。

私が所属していた劇団は、歌って踊ってナンボのミュージカル劇団だったから、続けるのであれば手術が必須だった。手術をして劇団に残るか、劇団をやめて踊らなくていい道を探すか。ただし、芸能の仕事を続けていく限り、まともに走ることすらできないというのは問題外だ。そもそも、日常生活に支障はないと言っても、バイク便だって不動産営業だって、動いてナンボの仕事なのである。足にケガがある状態で続けるのは危険すぎる。それに、学生時代からずっと続けていたバスケもやめなくてはならない。趣味をひとつ失うのである。

 

ということで、まさかの展開から大きく軌道修正を迫られた私は、大いに悩んで、悩んで、悩んだ結果、膝の炎症が治まったころに、役者をやめるという決断に至った。

きっかけはケガだったが、やはり、最後はお金の問題。劇団の公演以外では結局大きな仕事はなく、役者を名乗っているにも関わらず、収入のほとんどは芸能以外の仕事から得ているという事実。役者を続けるために使っている数々の経費がなくなれば、収支バランスが大きく改善するということは、さすがに理解していた。

ただただ、未練タラタラで、決断ができていなかっただけ。既に生活の主軸は役者以外に置かれていたし、役者をやめることで迷惑をかける人もいなかった。役者をやめることを劇団メンバーや繋がりのあった人たちに話したときに、残念だと言ってくれた人がいたことに救われたし、きっとそれが私が役者として得た財産だったんだと、今でも思っている。

ということで、大学を辞めて約5年後、24歳で役者を引退した私は、ローン返済と、膝の手術後の生活費を貯めることを当面の目標に置いた。

 

この時点では、バイク便と賃貸営業が収入の柱だったわけだが、それ以外にもいくつか仕事をしていた。それが、今現在に繋がる道を作ってくれたITの仕事たち。

ひとつはIT土方の仕事。飲食店のオーダーシステムや小売店のレジシステムとかの機械が壊れたときに、バイクで現地にかけつけて、その場で原因調査して機器交換や修理をするという仕事。

あとは、少しずつ世間で始まっていたクラウドソージングで、Excelマクロを作って売ったり事務代行したりして小銭を稼いでいた。

膝を壊した私は、肉体労働から座ってできる仕事に主軸を移す必要があった。だから、ITの仕事をしていたことに救われた。IT土方の仕事の発注元と相談して、コールセンターでテクニカルサポートの仕事をさせてもらえることになったのだ。

平日はテクニカルサポートの仕事をして、土日は賃貸営業の仕事をして、という生活を1年半くらい続けた頃、無事ある程度のお金がたまったので膝を手術することにした。膝の手術後の苦悶の日々は思い出したくもないので割愛するが、手術から半年後には、そこそこに飛んだり跳ねたり走ったりできるくらいまでは回復した。

 

そして、ふたたび貯金がゼロになった。

 

ただし、ローンもなくなったので完全にゼロ。膝も戻っているので肉体的な意味では仕事の制限もゼロ。気持ちいいくらいに全てがリセットされた。

このまま個人事業主を続けるという選択もできたわけだが、ケガをしたことで社会保険の魅力(というか傷病手当金の存在)を知った私は「傷病手当金があったら、膝を治すためにこんなに苦労することなかったのに」と思ってしまった。なので、しばらくは法律や保険制度に守ってもらいたいと思って、26歳で会社員になることを選んだ。

 

今日もダラダラ書いてしまったので、ここまで。次回で振り返りは最後にしよう。

とはいえ、会社員になってから今現在までの話を事細かく書いてしまうと身バレしそうなので、最後は色々と濁すつもりでいるが笑

自分が読んで振り返ってわかればいいのさ!