コミュ力を自分なりに定義してみる

自分のやりたいことと、会社から求められてることのギャップに苦しむ今日この頃。

今日は自分なりにコミュ力というものを考えてみたい。

 

というのも、私は、会社からの評価ではコミュ力が高いらしい。だから、技術営業へのキャリアチェンジを提案されたことがある。というか今日もされたんだが。

だがしかし。私は自分自身のことを陰キャだと認識してる。だから「りーこさんのコミュ力を生かして~…」とか上司に言われるとちゃんちゃらおかしい(死語?w)

はてさて、このギャップはなんなのか。それを私なりに考察してみたい。

 

ちなみに、私は今の会社でのファーストキャリアがサポートエンジニアだから、開発エンジニアに比べれば、確かに喋れるし空気も読める(と、自分では思っている)

だがしかし、営業メンバーのコミュ力には全くもって敵わない。商談同席やら導入支援やらの打ち合わせでは、冒頭の挨拶的なものは営業に丸投げしている。話題を振られるまでは絶対に自ら話し出さない。(そんな感じだから、WEB会議に自分が1番最初に参加して、かつ、営業より先にお客さんが来てしまったときのフリーズ具合は半端ないw)

一方で、障害調査やら機能説明やらの打ち合わせなら、冒頭から仕切れと言われても全く困らない。定型トークから始めて、そのまま本題一直線すればいいだけだから。

 

なんていうか、会話の掴みとか、アイスブレイクとか、雑談と呼ばれる領域の会話が苦手。場を和ませるとか、会話で肩の力を抜くとか、難易度高すぎる。

一方で、クレームっぽい問い合わせの消火には自信がある。メールとか電話とか表情がないコミュニケーションでも、相手の感情を察知して源泉探ってとりあえず毒を抜くっていう作業は正確だし速い方だと思っている。なんせ顧客対応そのもののクレームはもらったことがないから。

 

感情に重きをおいて日々を生きている私としては、コミュ力の分解も感情に重きを置いて考えてみたい。

 

このふたつのエピソードは、どちらも、コミュニケーションの発信元が自分にあるのか相手にあるのか、が違うと思っている。

コミュニケーションの発信を自分からするときというのは、相手が感情が表に出てないときが多くて、掴み所を探すという作業があるように思う。もっと言えば、相手の感情を自分ペースに引き込む力、とでもいうのかな。

感情がゼロないしはゼロに近いところから、プラスもしくはマイナス方向に動かす力なんじゃないか、と思っている。

一方で、コミュニケーションの発信が相手の場合は、だいたいの場合において相手の感情は見えている。掴み所が見えているから、あとは掴み方を間違えなければいいだけ。

マイナス感情であればゼロ方向に戻せばいいし、プラス感情であれば、感情をキープするか増幅させてしまえばいい。

 

ここまで考えると、別にどっちかが優位というものでもないんだろう。

もちろん、ビジネスシーンでは、0から1を生み出す力というのは物凄く優遇されているような気がするので、コミュニケーションにおいても、ゼロから発信できる力というのは評価されやすいし、失敗してもあまり評価を下げない気がする。

一方で、マイナスを0に戻したり、1を1のまま維持したり、という力は評価されにくい気がする。それどころか、失敗したときは、これまた見事に評価が下がる。私が得意と認識しているのはこっちなので、なんとも日の目を見ないことが多くて嘆きたくなるときもある。

 

だがしかし。守備なくして攻撃にはいけない。

かつて高校のバスケ部のコーチに言われたことで、物凄く印象に残っている言葉がある。

「調子が悪いときにシュートは入らない。でも、ディフェンスは練習を裏切らない。調子が悪いときこそディフェンスに徹しなさい。ディフェンスから自分のペースを作って、自分で良い調子を作りなさい」

(あ。思い出したら泣けてきたわ…)

 

私は攻撃は苦手。守備の方が得意。

マイナスをゼロに戻す作業は、実にイレギュラーが多くて楽しいのである。イレギュラー要素満載の案件を定型業務の枠に押し込んだときの達成感は、数千ピースのパズルを完成させたときのような感じ。すごい達成感を得ることが出来る。

 

ということで、脱線しまくってしまくって元の場所もわからなくなってしまったが、とりあえずの結論。

 

技術営業の話は断ろう。

ブログはじめ 自分を振り返る③

2023年2月26日。3日目。

 

前回、3日坊主にならないことを目標にしていたというのに、あやうく2日坊主になるところだった笑

会社の飲み会やら友達やらと飲み歩いた飛び石連休。大いに楽しんだから、そろそろ続きを書こうと思います。

 

個人事業主となった私のお話。一言で表すなら、自由。ただし、一定期間だけ。

 

親の恩情に甘えて家の心配はないとはいえ、生活費はさすがに稼ぐ必要があった。

所属する劇団では、公演に出演できた場合は出演料がもらえるが、所属しているだけでは1円にもならない。そもそも出演が約束されているポジションでもないし、公演以外の仕事はオーディションがあるものがほとんどなので、基本的な収入は劇団以外に求める必要があった。

普通のアルバイトをしてもよかったのだが、オーディションの話は前日の夜に突然飛び込んでくることも多いので、シフトがガチガチに決まってしまう仕事は好ましくなかった。なので、飲食店のバイトとか、事前にシフトを提出する仕事を選択肢から除外した。そうすると、選択肢は思いのほか少ない。

そこで選んだのが個人事業主としてできるバイク便。事前のシフト提出はあるもののあくまで目安なので、予定を前日にひっくり返すことができるということが魅力だった。何より、当時はバイク大好きだったので、ある意味天職だった。本気で稼働すれば、売上ベースで月100万近く稼げるというのもよかった(もちろん、ガソリン代とかバイクの維持費とかの経費はここから出すことになるわけだが)。

公演が決まると1~2か月はまともに外貨獲得ができなくなるので、バイク便でごそっと稼いでしばらく公演に集中する、というのが定番となった。

 

だがしかし。この生活は2年ももたなかった。兄が社会人となったことで、親から受けていた家賃援助がなくなったのである。経費を入れても月20万稼げればよかった生活費に、家賃と光熱費という固定費が上乗せされることになった。しかも、調子に乗って仕事で使うバイクをフルローンで買っていたりもしたので、その支払いにも追われる日々がやってきた。

2年経っても、劇団の公演以外では役者としての仕事もほとんどなかったから、そっちの収入もない。バイク便は、働けば働くほど稼げるのは間違いないが、比例してガソリン代やバイクメンテナンス代や消耗品代も吊り上がっていく。

 

お金がやばい。理解はしていた。だが、なんだかんだ毎日楽しくて、減っていく通帳残高と本気で向き合うことができなかった。

 

通帳残高が尽きてからは、カードローンの残高が増えていった。バイクのローンが終われば支出は改善されるし、そうすればカードローンの返済に回せるお金が増えるはず、と安直に思っていた。きちんと家計簿をつけていれば、バイクのローンを差し引いても、収入より支出が上回っていたことに気付いたと思うんだが、それすらもやっていなかった。20歳そこそこの個人事業主、カードローンの上限もゴミみたいなものなのである。家賃を自分で払うようになって1年ほどで、カードローンの残高が上限に到達し、新規の借り入れもできなくなった。

そこでようやく私は、支出改善と収入増加に本気で取り組むことになった。

とはいえ、いつ仕事に繋がるかわからない飲み会を削るという発想はない。仕事のための経費を削ることもしない。なので、身の回りの生活費を削ることにしたが、もともと服や美容にはさほど興味がないので、削れた金額は微々たるものだった。

どちらかというと、本気で取り組んだのは収入増加だ。バイク便の顧客は法人がほとんどなので、平日はいいのだが、土日は案件が少なくて時間を無駄にしてしまうことが多かった。公演やオーディション前は本読みとかに使っていたのだが、そうでないときは友達と電話したりして暇つぶししていたりした。なので、土日を有効活用することにした。

何をしたかというと、賃貸物件のカウンター営業。大学をやめたときに大学の友達とはほとんど連絡を絶ってしまったが、ひとりだけ繋がっている子がいた。彼女が不動産管理会社に勤めていて、その会社が委託で営業を募集していたので、土日だけお世話になることにした。週末で3~4本接客すると、そのうち1本は成約になった。書類作成を含めた契約までの全業務を請け負うと、仲介手数料の半分がそのまま入ってくるのだが、平日は時間確保が難しいので、手数料を払って書類周りの仕事は全部お願いした。それでも、月に10万弱は収入が増えた。

収入が増えたことで、毎月の収支バランスがようやく整った。とはいえ、カードローンを一気に返済するだけの収入でもない。生活はなんとかなるが、カードローン残高という爆弾を抱えたまま、ちゃんと貯金もできない、という状況がしばらく続いた。

 

そしてこの状況は、24歳のある日、最悪の形で破綻することとなった。趣味で続けていた社会人バスケで大ケガをしたのだ。診断は前十字靭帯断裂。炎症が収まれば日常生活には支障はないが、運動には大きく制限を加える必要がある。きちんと直すためには手術が必要となり、手術後は半年程度、日常生活に影響が出る、というものだった。

私が所属していた劇団は、歌って踊ってナンボのミュージカル劇団だったから、続けるのであれば手術が必須だった。手術をして劇団に残るか、劇団をやめて踊らなくていい道を探すか。ただし、芸能の仕事を続けていく限り、まともに走ることすらできないというのは問題外だ。そもそも、日常生活に支障はないと言っても、バイク便だって不動産営業だって、動いてナンボの仕事なのである。足にケガがある状態で続けるのは危険すぎる。それに、学生時代からずっと続けていたバスケもやめなくてはならない。趣味をひとつ失うのである。

 

ということで、まさかの展開から大きく軌道修正を迫られた私は、大いに悩んで、悩んで、悩んだ結果、膝の炎症が治まったころに、役者をやめるという決断に至った。

きっかけはケガだったが、やはり、最後はお金の問題。劇団の公演以外では結局大きな仕事はなく、役者を名乗っているにも関わらず、収入のほとんどは芸能以外の仕事から得ているという事実。役者を続けるために使っている数々の経費がなくなれば、収支バランスが大きく改善するということは、さすがに理解していた。

ただただ、未練タラタラで、決断ができていなかっただけ。既に生活の主軸は役者以外に置かれていたし、役者をやめることで迷惑をかける人もいなかった。役者をやめることを劇団メンバーや繋がりのあった人たちに話したときに、残念だと言ってくれた人がいたことに救われたし、きっとそれが私が役者として得た財産だったんだと、今でも思っている。

ということで、大学を辞めて約5年後、24歳で役者を引退した私は、ローン返済と、膝の手術後の生活費を貯めることを当面の目標に置いた。

 

この時点では、バイク便と賃貸営業が収入の柱だったわけだが、それ以外にもいくつか仕事をしていた。それが、今現在に繋がる道を作ってくれたITの仕事たち。

ひとつはIT土方の仕事。飲食店のオーダーシステムや小売店のレジシステムとかの機械が壊れたときに、バイクで現地にかけつけて、その場で原因調査して機器交換や修理をするという仕事。

あとは、少しずつ世間で始まっていたクラウドソージングで、Excelマクロを作って売ったり事務代行したりして小銭を稼いでいた。

膝を壊した私は、肉体労働から座ってできる仕事に主軸を移す必要があった。だから、ITの仕事をしていたことに救われた。IT土方の仕事の発注元と相談して、コールセンターでテクニカルサポートの仕事をさせてもらえることになったのだ。

平日はテクニカルサポートの仕事をして、土日は賃貸営業の仕事をして、という生活を1年半くらい続けた頃、無事ある程度のお金がたまったので膝を手術することにした。膝の手術後の苦悶の日々は思い出したくもないので割愛するが、手術から半年後には、そこそこに飛んだり跳ねたり走ったりできるくらいまでは回復した。

 

そして、ふたたび貯金がゼロになった。

 

ただし、ローンもなくなったので完全にゼロ。膝も戻っているので肉体的な意味では仕事の制限もゼロ。気持ちいいくらいに全てがリセットされた。

このまま個人事業主を続けるという選択もできたわけだが、ケガをしたことで社会保険の魅力(というか傷病手当金の存在)を知った私は「傷病手当金があったら、膝を治すためにこんなに苦労することなかったのに」と思ってしまった。なので、しばらくは法律や保険制度に守ってもらいたいと思って、26歳で会社員になることを選んだ。

 

今日もダラダラ書いてしまったので、ここまで。次回で振り返りは最後にしよう。

とはいえ、会社員になってから今現在までの話を事細かく書いてしまうと身バレしそうなので、最後は色々と濁すつもりでいるが笑

自分が読んで振り返ってわかればいいのさ!

ブログはじめ 自分を振り返る②

2023年2月20日。2日目。

いや、書き始め時点で日が変わっていて、既に21日なんだがキニシナイ。

日付の変わり目は24時ではなく、寝て起きたときなのである。

 

昨日書いたブログ読み返して、なんか・・・ただひたすらに恥ずかしい感情に身もだえている。

だって、こんなに赤裸々に人生書いたの初めてだもの。

まぁいいや。始めると決めたんだから今日も書こう。三日坊主にならないというのが今の目標笑

 

さて、昨日は大学まで書ききったから、今日は役者から始まるこれまでを書くことにする。

 

高校卒業と同時に東京に来て、大学と並行して声優事務所が運営する養成所に通い出したわけなんだが、声優養成所と言いつつ、やることは普通の俳優の勉強だった。上の方のクラスは、アテレコだなんだと声優らしい勉強もあったようなのだが、私は下の方のクラスからスタートしたから、滑舌とか発声とか演技の基礎の基礎から学び始めた。

ちなみに初めての課題は外郎売だった。3か月くらいずっと外郎売やったもんで、これは今でも空で言える。とはいえ今となっては発表する機会はないので、サウナで整っているときにぼーっと口ずさむことがあるくらい。

もし、埼玉のアジアンが売りのサウナで外郎売つぶやいているソロアラフォー女子がいたら、それ私かもしれない笑

 

さて、いきなり脱線したぞ。まぁいいや。今日も派手に脱線して行こう。

 

声優事務所お抱えの養成所と言えど、下の方のクラスにはオーディションの話など1ミリも来ないわけで、仕事が欲しければ自ら外に出て行かなければならない。だから、養成所に入って半年くらい経った頃から、クラスの友達にくっついてオーディションを受けるようになった。

だがしかし。演技を始めて半年そこらの半人前にも満たない未熟者など、オーディションの一次審査に進むことすらできない。ほとんどが書類で落とされた。それまでの人生、なんだかんだ努力すればなんとかなってきた私は、書類審査10連敗をたたき出したときにはかなりの勢いでボロボロになっていた。

10連敗くらい普通だよー、と友達に言われても到底立ち直ることなどできない。20連敗したころには、落ちることが怖くて書類を出すことすらできなくなっていた。

本当に、オーディション20連敗くらい、今考えれば普通なんだが。ここまでの人生で失敗らしい失敗をしてこなかった私は、まず失敗という事実自体を受け入れることができなかった。そして、このまま失敗し続けたらどうしようとなり、そしてそのまま声優を目指すことすら怖くなっていた。

だがしかし。そこは事実を受け入れていない私。「なんで声優なんて目指したんだろう」と思考をすり替え「声優より舞台の方が楽しいじゃん、もう声優目指すのやめよ」と方向転換をした。そして、あれだけ親と大喧嘩して決めたはずの養成所通いを、あっさり1年でやめた。(大学は親に学費を払ってもらっていたけど、養成所の学費は自分で払っていたのでやめることに罪悪感がなかった)

ちなみに、演技を初めて1年くらい経った頃には、養成所の友達のツテのツテのツテくらい先の繋がりで、多少ではあったけど舞台の役をもらっていることがあった。舞台の稽古はついていけないことも多かったし、演出の人にも役者先輩にも怒られてばかりだったけど、舞台に立てているという事実だけで頑張る理由になった。少なくとも、書類すら通らない声優のオーディションよりは、遥かに私を満たしてくれていた。

養成所を辞めたときの後ろめたい理由のすり替えを正当化するつもりはないが、とはいえ、声優の道を早々に切り捨てたこと自体が間違いだったとは思っていない。舞台の仕事と違って声優の仕事には必ずクライアントがいる。役さえもらえればお金をもらえるが、クライアントありきである以上、圧倒的に間口が狭く競争率が尋常ではない。(自主制作CDなど自分で費用を出して作る一部の創作物を除く)

その点、舞台は、演出や脚本メンバーが主体となって企画されることが多い。スポンサーがいることも稀にあるが、とはいえクライアントではない。自分たちで費用を持ち出すぶん、圧倒的に数が多い。役者側としては、最低限のチケットノルマさえクリアすれば、収入はないが支出もない。数をこなして成長を優先するなら舞台に主軸を置いた方が有利だった。

だけど、あのまま養成所に残っていたらどうなっていたのかなと、ふと思う。当時の養成所のクラスに、1人だけ、プロの声優として現役で活躍している人がいる。SNSでたまたま彼女の仕事を見つけて、そして事務所のHPを見に行って、プロになったことを知った。

そういえば、何度か彼女の舞台には誘われて見に行ったことあったなと、ふと思い出す。30歳を超えてからは一度も会ってない。だから、彼女がいつまであの養成所にいたのか、いつから舞台をやって、いつから事務所に所属したのかは知らない。もしいつか彼女と再会することがあったら、答え合わせをしてみたいと思う。

 

はい、また脱線。話を戻そう。

 

声優の養成所をやめて舞台を軸足に置いた私は、まずはどこかに所属したいと思って、色んな劇団の舞台に参加しつつ、所属させてくれる劇団を探した。またオーディション地獄に陥ったわけだが、今度はひたすら書類落ちということもなく、そこそこのモチベーションを保つことができた。

半年くらい頑張ったところで、ミュージカルをメインに公演している劇団に拾ってもらうことができた。毎公演の出演が約束される正所属とまではいかなかったけど、毎公演の候補メンバーとしてエントリーさせてもらえる準所属になることができた。

そこの劇団では、準所属になると、主催のミュージカル以外の仕事も声をかけてもらえることになっていた。私が受けられる仕事はエキストラがほとんどだったから、当然ながらそれだけで食っていくことはできなかったけど、中には役者らしい仕事をもらえたこともあった。エキストラでもチケットノルマでもない、本当の意味で役者としてもらった報酬。このお金を初めて受け取ったときの感覚は今も覚えている。とんでもなく安かったけど、金額の大小ではなかった。「やっと本当の意味で役者になれた」っていう達成感だった。

そして、2年生の前期が終わって、このタイミングで大学を辞めた。大学と劇団が片道1時間かかる場所で遠かったということもあるけど、何よりも、建築学科は課題が多すぎて両立が不可能だったというのが大きい。

当然ながらまたも母親と大喧嘩が勃発するわけだが、詳細を語るのはやめておく。だけど大事なことがひとつあって、この大喧嘩の結果、東京近辺に住んでいた大学生の兄と同居することになって、親が家賃を払ってくれることになった。反抗期も少し残っていたけど、なんだかんだでこの提案に最後は甘えた。

本当に私は甘やかされて育ったなと自覚している。大喧嘩の内容を思い返してみても、役者を目指すこと自体を反対されていたわけではなかった。大学だけは卒業しておけという親心だけだった。だから、不安定になるだろう私を見かねて、家賃を持つ条件として(本当は、きっと建前として)学生である兄との同居を言い渡されただけだったんだと思う。当時の私はまったく気づいていなかったけどね。

 

そんなカンジで家の心配がなくなった私は、圧倒的に有利だった。生活費のためにガツガツ働く必要がなかったので、正社員として週5日働くという選択肢をとる必要はなかった。役者の仕事やオーディションは前日の夜とかに突然入るので、シフトに縛られるバイトですら好まなかった。

そもそも、役者業をやるなら最低限白色申告をしなければならないことは劇団で教わっていた。「だったらいっそ完全に個人事業主になって青色申告にすればいいじゃない、税金安くなるし」という超安直な理由で個人事業主になった。

 

というところで、さて・・・もう既に昨日と同じだけ文字数を書いてしまった。そろそろ明日の仕事に差し支える時間だからここまでにしよう。

役者から今の仕事まで突っ走って振り返るつもりだったはずだったのに、ようやく大学を辞めて個人事業主になっただけだわ。1年半しか進んでいない笑

明日は、個人事業主生活を描ききることを目標にしようと思う。役者をやりつつ個人事業主を始めたはいいが、兄の大学卒業と共に一人暮らしを始め、親からの援助も完全になくなって、そこから始まる真っ逆さま生活。いや、現実を思い知らされる生活という方が正しいかな。世の中そんなに甘くありませんってところを振り返りたいと思います!

 

ということで、おやすみなさいZZzz。。..

ブログはじめ 自分を振り返る①

2023年2月19日。

初めてのブログ。

何書こう。どきどき。

とはいえ、最初から小難しいこと書いてもしょうがないからほどほどに。

私ってこんな人間、という人生の振り返りから始めようかなとおもう。

 

私は、北海道のド田舎の建設会社の家に、3人兄弟の末っ子長女として生まれた。

幼児期は、父親の武者修行にくっついて千葉で過ごした。そして小学校1年生のときに祖父にがんが見つかり、父親の武者修行終わりと共に北海道に帰った。

小学生のときはあまり友達は多くなかった。今となっては笑ってしまうネタなんだが、転校早々にちょっとした事件を起こしたせいで同じクラスでの友達作りに失敗した。

 

事件の詳細は伏せておくけど、小学校での友達作り失敗事件は、私の人生にとても大きな影響を与えていると思う。

友達がいないことが辛いと知っているので、新しいコミュニティに参加したときは、それなりに人に話しかけに行く。なので、知人程度の友達は多いと思う。

とはいえ基本は陰キャなので、深い付き合いをしている友達は多くない。

用事がなくても連絡を取るような友達は少なく、そんな女友達はことごとく子育て真っ最中なので、結果としてボッチの今日この頃。インターネットの向こうに友達を求めている結果がこのブログなんだろうと認識している。

 

ちょっと脱線した。戻ろう。

 

小中学校は、田舎らしく完全持ち上がりだったので、中学校でも友達が少ない状態が続いた。なので高校は外に出たいと思った。ただ、当時(2000年頃)の北海道の高校受験制度では、居住エリア外の公立高校へ進学することは、とにかくハードルが高かった。なので、消去法的に私立を選んだ。

受験ハードルが低い私立に狙いを定めても、行きたい高校の受験には偏差値が足りなかったから、進学塾に通うことにした。地元には、公文とそろばん塾はあったけど、進学塾はなかった。だから、汽車で片道1時間半かかる街の進学塾に通った。中学3年の1年間だけだったけど、人生で一番努力したのはこの時だったと思う。

 

努力の甲斐あって、無事、第一志望の札幌の高校に合格した。地元から特急で片道3時間の高校。高校進学とともに親元を離れた。地方から人が集まる進学校だったから、高校として寮を持っていた。1年生では高校の寮に入って、2年生からは民間の学生会館に引っ越した。

学生会館には高校生は少なくて、ほとんどが大学生や専門学校生だった。そして、奇跡的な偶然で、中学の部活の先輩がその学生会館にいた。おかげで、あっという間に大学生や専門学校生たちと仲良くなった。

違う世界に住む先輩たちの話は、私の世界を大きく広げてくれた。学祭シーズンは、とにかく色んな学校にお邪魔した。あぁこんな世界があるんだな、私はどうしようかなと、自分の将来に想像を馳せる時間は多かった。

あと、高校3年間は部活漬けだった。当時の部活仲間は今でも本当に仲がいい。全員が独身だった頃は、毎年全員で旅行に行っていた。今は、私以外は全員子育て真っ最中なので全員が集まれることはほぼないけど、全員の子育てがひと段落したらまた旅行に行こうと、集まる度に約束している。40代のうちには行きたいなーと、個人的には思っている。

 

あ、また脱線した笑

 

そんなこんなで、勉強そっちのけだった高校3年間。もともとアニメ好きだったということもあったし、アイドル声優がテレビの世界に進出しだした時期で、完全なる声優ブームだったので、高校を卒業したら声優になりたいと思った。なので、声優事務所が運営する養成所に行こうと、勝手に進路を決めて勝手に応募して合格した。合格が出た高3の夏に「養成所に行くから、高校卒業したら東京行くわ」と親に話したら大説教を食らった。

今になって思えば、自分だけの力で生きていくことにこだわっているだけで、親への反発心しかなかったように思う。完全に反抗期だったな。

部活も引退した夏休みは、実家に帰って連日喧嘩。大学に行けという母親と、働いて声優養成所に行くと主張する私。夏休み中ずっと喧嘩し続けて疲れたころ、ようやく結論が出て、大学と養成所に両方行くことにした。

 

ちなみにこのとき、父親は一度も喧嘩に参加していない。最近になって父親の当時の胸中を知ったけど「子供の人生は子供のもの。苦労も勉強。好きにさせろ」だったらしい。あと「俺もとにかく好き勝手やったから、子供の人生にとやかく口を出す資格は俺にはない」とも思っていたらしい。

実に経営者らしい考え方だと思う。社長だった父はとにかく忙しい人で、だから休日もほとんど一緒に過ごした記憶もないけど、それでも、私の根底には父の姿が一番大きく存在しているように思う。父さん、あなたは尊敬する人です。

 

またまた脱線した。脱線しすぎだ笑

 

高校の最後は、中学のときほどではないが、それでもそこそこ真面目に勉強した。進学校ということもあって授業自体が受験勉強だったので、宿題をこなすだけで予備校に通わなくともそこそこの勉強ができた。

とはいえ、自分的には大学に求めるものがなかったので、どの大学に行くかで本当に悩んだ。部活の先生には(たぶんシャレだと思うんだが)「りーこには体育大学が合うと思う」と言われ、担任には「役者を目指すなら文学部」と言われ、仲がよかった化学の先生には「りーこは家業が建築なんだから、建築学んだら?」と言われ、保健の先生には「医療系は絶対に食いっぱぐれない」と言われた。

結果、12月になっても志望校は決まらなかった。2択まで絞ったところで最後が決められなくて、あみだくじに全てを託した。そして、建築に決まった。専攻が決まったので、あとはどの大学に行くかだけ。東京近辺で、模試の結果よりだいぶ偏差値の低い大学を選んだ。工学部と情報学部のみの工業大学だった。

 

とんでもない経緯で進学した大学だったけど、この大学を選んだことは、色々な意味で、私の人生を決定的に方向づけた。

情報学部があったから、工学部でも受けられる情報系の授業が多かった。パソコン大好きだった私は、情報系の授業をたくさんとった。中でも、プログラミングを学べたことがとにかく大きかった。役者に専念するために2年生の途中で大学は中退してしまったけど、役者やってるときのメシの種はITの仕事がほとんどだったし、その人脈と経験が全て繋がった結果、私は今、IT企業で働いている。

もしあのとき、くじの結果がもう一方の学部だったら。(もう一方は文学部だった)

もしくは、もう少し偏差値が高いか低いかで違う大学を選んでいたら。(絶対に落ちないように、模試偏差値マイナス10の大学を機械的に選んだ)

何かひとつ違っただけで、私はきっとまったく違う人生を送っていたんだろうと思う。なんだかんだで、私は今、普通に毎日を生きている。トラブルもストレスも多いけど、楽しいことも結構ある。悪くはない。

そう考えると、あのとき強固に大学に行けと言い続けた母親は正しかった。今となっては感謝しかない。母さん、ありがとう。

 

と、ここまででだいぶ長文になったので、今日はここまでにしよう。

なぜか、両親に感謝するいい話にしてしまった。考えていたのと何かが違う。まぁこれはこれでいいか。日記ブログだし。

学生時代は書ききったから、次回は役者から始まる社会人人生を書こうと思う。年齢的な意味合いでも、ようやく折り返しくらい。

最初に書き始めてから3時間経った。書きすぎた。お腹すいた笑

 

今日の最後にひとつ。気づいてしまったので書いておこう。

ギャンブルで始まった人生なんだから、これからの人生もきっとギャンブルだ。くじ引きで人生決めても、今、私はなんだかんだ幸せに生きている。

最近、ちょっと安定を求めつつあったけど。くじ引きで始めた人生に安定を求めてどうすると、ここまで書いてハタと気付いてしまった。

うん。人生、楽しくてナンボだ。やりたいことをやろう。それが、私らしいということなんだと思う。