ブログはじめ 自分を振り返る②

2023年2月20日。2日目。

いや、書き始め時点で日が変わっていて、既に21日なんだがキニシナイ。

日付の変わり目は24時ではなく、寝て起きたときなのである。

 

昨日書いたブログ読み返して、なんか・・・ただひたすらに恥ずかしい感情に身もだえている。

だって、こんなに赤裸々に人生書いたの初めてだもの。

まぁいいや。始めると決めたんだから今日も書こう。三日坊主にならないというのが今の目標笑

 

さて、昨日は大学まで書ききったから、今日は役者から始まるこれまでを書くことにする。

 

高校卒業と同時に東京に来て、大学と並行して声優事務所が運営する養成所に通い出したわけなんだが、声優養成所と言いつつ、やることは普通の俳優の勉強だった。上の方のクラスは、アテレコだなんだと声優らしい勉強もあったようなのだが、私は下の方のクラスからスタートしたから、滑舌とか発声とか演技の基礎の基礎から学び始めた。

ちなみに初めての課題は外郎売だった。3か月くらいずっと外郎売やったもんで、これは今でも空で言える。とはいえ今となっては発表する機会はないので、サウナで整っているときにぼーっと口ずさむことがあるくらい。

もし、埼玉のアジアンが売りのサウナで外郎売つぶやいているソロアラフォー女子がいたら、それ私かもしれない笑

 

さて、いきなり脱線したぞ。まぁいいや。今日も派手に脱線して行こう。

 

声優事務所お抱えの養成所と言えど、下の方のクラスにはオーディションの話など1ミリも来ないわけで、仕事が欲しければ自ら外に出て行かなければならない。だから、養成所に入って半年くらい経った頃から、クラスの友達にくっついてオーディションを受けるようになった。

だがしかし。演技を始めて半年そこらの半人前にも満たない未熟者など、オーディションの一次審査に進むことすらできない。ほとんどが書類で落とされた。それまでの人生、なんだかんだ努力すればなんとかなってきた私は、書類審査10連敗をたたき出したときにはかなりの勢いでボロボロになっていた。

10連敗くらい普通だよー、と友達に言われても到底立ち直ることなどできない。20連敗したころには、落ちることが怖くて書類を出すことすらできなくなっていた。

本当に、オーディション20連敗くらい、今考えれば普通なんだが。ここまでの人生で失敗らしい失敗をしてこなかった私は、まず失敗という事実自体を受け入れることができなかった。そして、このまま失敗し続けたらどうしようとなり、そしてそのまま声優を目指すことすら怖くなっていた。

だがしかし。そこは事実を受け入れていない私。「なんで声優なんて目指したんだろう」と思考をすり替え「声優より舞台の方が楽しいじゃん、もう声優目指すのやめよ」と方向転換をした。そして、あれだけ親と大喧嘩して決めたはずの養成所通いを、あっさり1年でやめた。(大学は親に学費を払ってもらっていたけど、養成所の学費は自分で払っていたのでやめることに罪悪感がなかった)

ちなみに、演技を初めて1年くらい経った頃には、養成所の友達のツテのツテのツテくらい先の繋がりで、多少ではあったけど舞台の役をもらっていることがあった。舞台の稽古はついていけないことも多かったし、演出の人にも役者先輩にも怒られてばかりだったけど、舞台に立てているという事実だけで頑張る理由になった。少なくとも、書類すら通らない声優のオーディションよりは、遥かに私を満たしてくれていた。

養成所を辞めたときの後ろめたい理由のすり替えを正当化するつもりはないが、とはいえ、声優の道を早々に切り捨てたこと自体が間違いだったとは思っていない。舞台の仕事と違って声優の仕事には必ずクライアントがいる。役さえもらえればお金をもらえるが、クライアントありきである以上、圧倒的に間口が狭く競争率が尋常ではない。(自主制作CDなど自分で費用を出して作る一部の創作物を除く)

その点、舞台は、演出や脚本メンバーが主体となって企画されることが多い。スポンサーがいることも稀にあるが、とはいえクライアントではない。自分たちで費用を持ち出すぶん、圧倒的に数が多い。役者側としては、最低限のチケットノルマさえクリアすれば、収入はないが支出もない。数をこなして成長を優先するなら舞台に主軸を置いた方が有利だった。

だけど、あのまま養成所に残っていたらどうなっていたのかなと、ふと思う。当時の養成所のクラスに、1人だけ、プロの声優として現役で活躍している人がいる。SNSでたまたま彼女の仕事を見つけて、そして事務所のHPを見に行って、プロになったことを知った。

そういえば、何度か彼女の舞台には誘われて見に行ったことあったなと、ふと思い出す。30歳を超えてからは一度も会ってない。だから、彼女がいつまであの養成所にいたのか、いつから舞台をやって、いつから事務所に所属したのかは知らない。もしいつか彼女と再会することがあったら、答え合わせをしてみたいと思う。

 

はい、また脱線。話を戻そう。

 

声優の養成所をやめて舞台を軸足に置いた私は、まずはどこかに所属したいと思って、色んな劇団の舞台に参加しつつ、所属させてくれる劇団を探した。またオーディション地獄に陥ったわけだが、今度はひたすら書類落ちということもなく、そこそこのモチベーションを保つことができた。

半年くらい頑張ったところで、ミュージカルをメインに公演している劇団に拾ってもらうことができた。毎公演の出演が約束される正所属とまではいかなかったけど、毎公演の候補メンバーとしてエントリーさせてもらえる準所属になることができた。

そこの劇団では、準所属になると、主催のミュージカル以外の仕事も声をかけてもらえることになっていた。私が受けられる仕事はエキストラがほとんどだったから、当然ながらそれだけで食っていくことはできなかったけど、中には役者らしい仕事をもらえたこともあった。エキストラでもチケットノルマでもない、本当の意味で役者としてもらった報酬。このお金を初めて受け取ったときの感覚は今も覚えている。とんでもなく安かったけど、金額の大小ではなかった。「やっと本当の意味で役者になれた」っていう達成感だった。

そして、2年生の前期が終わって、このタイミングで大学を辞めた。大学と劇団が片道1時間かかる場所で遠かったということもあるけど、何よりも、建築学科は課題が多すぎて両立が不可能だったというのが大きい。

当然ながらまたも母親と大喧嘩が勃発するわけだが、詳細を語るのはやめておく。だけど大事なことがひとつあって、この大喧嘩の結果、東京近辺に住んでいた大学生の兄と同居することになって、親が家賃を払ってくれることになった。反抗期も少し残っていたけど、なんだかんだでこの提案に最後は甘えた。

本当に私は甘やかされて育ったなと自覚している。大喧嘩の内容を思い返してみても、役者を目指すこと自体を反対されていたわけではなかった。大学だけは卒業しておけという親心だけだった。だから、不安定になるだろう私を見かねて、家賃を持つ条件として(本当は、きっと建前として)学生である兄との同居を言い渡されただけだったんだと思う。当時の私はまったく気づいていなかったけどね。

 

そんなカンジで家の心配がなくなった私は、圧倒的に有利だった。生活費のためにガツガツ働く必要がなかったので、正社員として週5日働くという選択肢をとる必要はなかった。役者の仕事やオーディションは前日の夜とかに突然入るので、シフトに縛られるバイトですら好まなかった。

そもそも、役者業をやるなら最低限白色申告をしなければならないことは劇団で教わっていた。「だったらいっそ完全に個人事業主になって青色申告にすればいいじゃない、税金安くなるし」という超安直な理由で個人事業主になった。

 

というところで、さて・・・もう既に昨日と同じだけ文字数を書いてしまった。そろそろ明日の仕事に差し支える時間だからここまでにしよう。

役者から今の仕事まで突っ走って振り返るつもりだったはずだったのに、ようやく大学を辞めて個人事業主になっただけだわ。1年半しか進んでいない笑

明日は、個人事業主生活を描ききることを目標にしようと思う。役者をやりつつ個人事業主を始めたはいいが、兄の大学卒業と共に一人暮らしを始め、親からの援助も完全になくなって、そこから始まる真っ逆さま生活。いや、現実を思い知らされる生活という方が正しいかな。世の中そんなに甘くありませんってところを振り返りたいと思います!

 

ということで、おやすみなさいZZzz。。..