ブログはじめ 自分を振り返る①

2023年2月19日。

初めてのブログ。

何書こう。どきどき。

とはいえ、最初から小難しいこと書いてもしょうがないからほどほどに。

私ってこんな人間、という人生の振り返りから始めようかなとおもう。

 

私は、北海道のド田舎の建設会社の家に、3人兄弟の末っ子長女として生まれた。

幼児期は、父親の武者修行にくっついて千葉で過ごした。そして小学校1年生のときに祖父にがんが見つかり、父親の武者修行終わりと共に北海道に帰った。

小学生のときはあまり友達は多くなかった。今となっては笑ってしまうネタなんだが、転校早々にちょっとした事件を起こしたせいで同じクラスでの友達作りに失敗した。

 

事件の詳細は伏せておくけど、小学校での友達作り失敗事件は、私の人生にとても大きな影響を与えていると思う。

友達がいないことが辛いと知っているので、新しいコミュニティに参加したときは、それなりに人に話しかけに行く。なので、知人程度の友達は多いと思う。

とはいえ基本は陰キャなので、深い付き合いをしている友達は多くない。

用事がなくても連絡を取るような友達は少なく、そんな女友達はことごとく子育て真っ最中なので、結果としてボッチの今日この頃。インターネットの向こうに友達を求めている結果がこのブログなんだろうと認識している。

 

ちょっと脱線した。戻ろう。

 

小中学校は、田舎らしく完全持ち上がりだったので、中学校でも友達が少ない状態が続いた。なので高校は外に出たいと思った。ただ、当時(2000年頃)の北海道の高校受験制度では、居住エリア外の公立高校へ進学することは、とにかくハードルが高かった。なので、消去法的に私立を選んだ。

受験ハードルが低い私立に狙いを定めても、行きたい高校の受験には偏差値が足りなかったから、進学塾に通うことにした。地元には、公文とそろばん塾はあったけど、進学塾はなかった。だから、汽車で片道1時間半かかる街の進学塾に通った。中学3年の1年間だけだったけど、人生で一番努力したのはこの時だったと思う。

 

努力の甲斐あって、無事、第一志望の札幌の高校に合格した。地元から特急で片道3時間の高校。高校進学とともに親元を離れた。地方から人が集まる進学校だったから、高校として寮を持っていた。1年生では高校の寮に入って、2年生からは民間の学生会館に引っ越した。

学生会館には高校生は少なくて、ほとんどが大学生や専門学校生だった。そして、奇跡的な偶然で、中学の部活の先輩がその学生会館にいた。おかげで、あっという間に大学生や専門学校生たちと仲良くなった。

違う世界に住む先輩たちの話は、私の世界を大きく広げてくれた。学祭シーズンは、とにかく色んな学校にお邪魔した。あぁこんな世界があるんだな、私はどうしようかなと、自分の将来に想像を馳せる時間は多かった。

あと、高校3年間は部活漬けだった。当時の部活仲間は今でも本当に仲がいい。全員が独身だった頃は、毎年全員で旅行に行っていた。今は、私以外は全員子育て真っ最中なので全員が集まれることはほぼないけど、全員の子育てがひと段落したらまた旅行に行こうと、集まる度に約束している。40代のうちには行きたいなーと、個人的には思っている。

 

あ、また脱線した笑

 

そんなこんなで、勉強そっちのけだった高校3年間。もともとアニメ好きだったということもあったし、アイドル声優がテレビの世界に進出しだした時期で、完全なる声優ブームだったので、高校を卒業したら声優になりたいと思った。なので、声優事務所が運営する養成所に行こうと、勝手に進路を決めて勝手に応募して合格した。合格が出た高3の夏に「養成所に行くから、高校卒業したら東京行くわ」と親に話したら大説教を食らった。

今になって思えば、自分だけの力で生きていくことにこだわっているだけで、親への反発心しかなかったように思う。完全に反抗期だったな。

部活も引退した夏休みは、実家に帰って連日喧嘩。大学に行けという母親と、働いて声優養成所に行くと主張する私。夏休み中ずっと喧嘩し続けて疲れたころ、ようやく結論が出て、大学と養成所に両方行くことにした。

 

ちなみにこのとき、父親は一度も喧嘩に参加していない。最近になって父親の当時の胸中を知ったけど「子供の人生は子供のもの。苦労も勉強。好きにさせろ」だったらしい。あと「俺もとにかく好き勝手やったから、子供の人生にとやかく口を出す資格は俺にはない」とも思っていたらしい。

実に経営者らしい考え方だと思う。社長だった父はとにかく忙しい人で、だから休日もほとんど一緒に過ごした記憶もないけど、それでも、私の根底には父の姿が一番大きく存在しているように思う。父さん、あなたは尊敬する人です。

 

またまた脱線した。脱線しすぎだ笑

 

高校の最後は、中学のときほどではないが、それでもそこそこ真面目に勉強した。進学校ということもあって授業自体が受験勉強だったので、宿題をこなすだけで予備校に通わなくともそこそこの勉強ができた。

とはいえ、自分的には大学に求めるものがなかったので、どの大学に行くかで本当に悩んだ。部活の先生には(たぶんシャレだと思うんだが)「りーこには体育大学が合うと思う」と言われ、担任には「役者を目指すなら文学部」と言われ、仲がよかった化学の先生には「りーこは家業が建築なんだから、建築学んだら?」と言われ、保健の先生には「医療系は絶対に食いっぱぐれない」と言われた。

結果、12月になっても志望校は決まらなかった。2択まで絞ったところで最後が決められなくて、あみだくじに全てを託した。そして、建築に決まった。専攻が決まったので、あとはどの大学に行くかだけ。東京近辺で、模試の結果よりだいぶ偏差値の低い大学を選んだ。工学部と情報学部のみの工業大学だった。

 

とんでもない経緯で進学した大学だったけど、この大学を選んだことは、色々な意味で、私の人生を決定的に方向づけた。

情報学部があったから、工学部でも受けられる情報系の授業が多かった。パソコン大好きだった私は、情報系の授業をたくさんとった。中でも、プログラミングを学べたことがとにかく大きかった。役者に専念するために2年生の途中で大学は中退してしまったけど、役者やってるときのメシの種はITの仕事がほとんどだったし、その人脈と経験が全て繋がった結果、私は今、IT企業で働いている。

もしあのとき、くじの結果がもう一方の学部だったら。(もう一方は文学部だった)

もしくは、もう少し偏差値が高いか低いかで違う大学を選んでいたら。(絶対に落ちないように、模試偏差値マイナス10の大学を機械的に選んだ)

何かひとつ違っただけで、私はきっとまったく違う人生を送っていたんだろうと思う。なんだかんだで、私は今、普通に毎日を生きている。トラブルもストレスも多いけど、楽しいことも結構ある。悪くはない。

そう考えると、あのとき強固に大学に行けと言い続けた母親は正しかった。今となっては感謝しかない。母さん、ありがとう。

 

と、ここまででだいぶ長文になったので、今日はここまでにしよう。

なぜか、両親に感謝するいい話にしてしまった。考えていたのと何かが違う。まぁこれはこれでいいか。日記ブログだし。

学生時代は書ききったから、次回は役者から始まる社会人人生を書こうと思う。年齢的な意味合いでも、ようやく折り返しくらい。

最初に書き始めてから3時間経った。書きすぎた。お腹すいた笑

 

今日の最後にひとつ。気づいてしまったので書いておこう。

ギャンブルで始まった人生なんだから、これからの人生もきっとギャンブルだ。くじ引きで人生決めても、今、私はなんだかんだ幸せに生きている。

最近、ちょっと安定を求めつつあったけど。くじ引きで始めた人生に安定を求めてどうすると、ここまで書いてハタと気付いてしまった。

うん。人生、楽しくてナンボだ。やりたいことをやろう。それが、私らしいということなんだと思う。